昭和52年10月23日 朝の御理解
御理解 第69節
「信心はみやすいものじゃが、みな氏子からむつかしゅうする。三年五年の信心では、まだ迷いやすい。十年の信心が続いたら、われながら喜んで、わが心をまつれ。日は年月のはじめじゃによって、その日その日のおかげを受けて行けば立ち行こうが。みやすう信心をするがよいぞ」
「その日その日のおかげを受けて行けば立ち行こうが」と。「みやすう信心をするがよいぞ」と。お道の信心をさせて頂いて、その日その日が立ち行って行けば、もうそれが最高のおかげとして、お礼を申し上げて行くような信心が出来ますと、確かに十年と信心が続いたら、われながらわが心が祭れれるような状態が開けてくると思う。やはりおかげを受けて行くと言う事。そこに有難い勿体ない、自分のような信心に神様がこうもおかげを下さるというそのおかげがです。
「その日その日が立ち行けば」と言う、そのこと自体が大変なおかげであると気付かせて頂いての十年なんです。まあここ辺りの言葉で言うと、「押しやり蹴やり」と言います。どんな過去に難しい問題があっても、難儀な問題があっても、押しやり蹴やりで、しかしまあようこれでやって行けることだ。神様のおかげを頂かなければと言うその実感がね、やはり十年続いたら、われながらわが心が祭れるということは、おかげの実感というものが有難いということですから。
その有難いと言う心が、われながらわが心を拝める事なんですから、やはりだからおかげを頂かにゃ出来ませんし、またおかげの頂けれるその生き方というものがです。教祖様はここでは「難しゅうない」と。「信心はみやすいものじゃ」と仰っておられるわけです。一つのまあ自然界とでも言いますかね。働きの中にはもう氏子幸せにせにゃおかんという働きだけしかあってないと言う事をまず知る事です。
ですからその神様の思いを受け止めると言う事が、その日その日が立ち行く事に対してお礼が言えれるんです。「何時までこんな貧乏が続くだろうか」と。「何時までこんな難儀が続くだろうか」と。その貧乏も言うならば立ち行かない様な状態の中にあってもやはり、立ち行っておるという御都合お繰り合わせの中に、「もうお父さん、明日食べる米がないですよ」と。「それでもお前、今日一日頂けたと言う事が有難いことじゃないか」と。「明日は明日の風が吹こう。
明日の事は神様にお願いしてから、さあもう休もう休もう」と言うて安心して休めれると言う事なんです。もう本当にいつもお米でもがつがつで、「こげな貧乏何時までせんならんですか」と言う中には生まれて来ないです。今日を頂けたということが、どんなに難しい事柄の中にあっても、今日一日、やはりそこが何ともなしに頂けたということが、きついことではあった、今日は本当に恥ずかしい思いもした。
けれども「立ち行ったと言う事が有難いじゃないか」とお礼の言えれる信心。明くる日には成程神様が生かさずにおかんという働き。氏子幸せにせずにはおかんという働きがあるなあと言う事を、その日暮しのそういう中にあってもです。実感が出来るようになってご覧なさい。誰だって自分の心を拝めれるようになりますよ。何時までこんな難儀せんなんだろうかという思いの中からは、それは五十年経っても頂けません。
いやそしておかげを頂いておっても、おかげと実感しきらなったら我心が拝めれる祭れれる様にはならないと私は思う。今日一日その日その日がおかげを受けて行けばいい。それを特別なおかげが、例えばお金ならお金のお繰り合わせでも、特別なお繰り合わせを頂かなければおかげではないような思い方、そういう信心からは信心が非常に難しゅうなってくるし「はぁとても私どもじゃおかげ頂ききらん」と言う事になってくる。
おかげ頂いておってもそういうふうに言う。だから難しい。結局「氏子から難しゅうする」というのは、そう言う事ではなかろうかと。だからまず天地の親神様の働きというものは、もう氏子一人一人の上に幸せを授けたい、おかげをあげたいという願いだけしかないと言う様な事が、やはり判らなければなりませんですね。まあこの御理解はいろいろに説かれます。
例えば自動車の運転をすると言う事は、そんなに難しいことじゃない。一通りの試験を受けてそれに合格をする。それは合格するまでは、成程難しいかもしれんけれども、合格したら、なら「自動車というやつはこの運転ちゃ本当に毎日毎日が難しか」と言う事はないと思う。自分の身体の一部のように自動車が使えるようにもなる。信心もそうです。一通りのことを覚えると言う事は、確かにこの私共が住んでいるこの世の中には、天地の親神様の御恩恵が満ち溢れているんだと。
お恵みが満ち溢れておるんだと。しかもその溢れておるだけではない、どうにかしておかげを授けよう幸せにしよう言うならば、貧争病のない生活にも住まわせてやろう、真善美の輝かんばかりの世界にも住まわせてやろうという働きだけしかないんだと言う事を体得するまでは、自動車の試験を受けるようなもんだと思う。いわゆる第一天地のご恩徳を判らしてもらう。成程米一粒でも、水一すくいでも天地の御恩徳によって一粒の米であり、一すくいの水であると言う事が判ってくる。
次に天地の道理が判ってくる。そこでその天地の道理に逆らう様な事のない生き方を日常生活の上に現わして行く生き方、言うなら「何事にも信心になれよ」と。「成り行きを大切にして行けよ」とそれなんです。ですからそういう天地の道理とか御恩徳とか、天地の中には、そういう、それこそ億年かかっても、丸うせずにはおかんという働きだけしかあってないという働きの逆行した道をたどるから、神人は難しいことになるのである。「時節を待っておかげを受けろ」とおっしゃる。
もう時節ぐらい素晴らしい事はない。じっと時節を待たせて頂くと、必ずおかげのチャンスが与えられる。そのチャンスに乗っておかげを頂いて行くのです。そこにはその日その日が立ち行っておると言う事、その事が有難いと判らなければいけません。それを例えば、無理をしてでも早く楽になりたいと言った様な不自然な生き方をするから、十年経ってもおかげは頂いても、我心が拝めれる様に有難いものになって来ない。
金光様の御信心はどうでも一つ、もう今日一日立ち行くと言う事そのことが、広大なおかげだというふうに判ってくる。そこからまた、明日は明日で神様立ち行かして下さる働きを、十年間実感して行ってご覧なさい。もう愈々勿体ないと言う事になるですよ。ただ願いのある時だけ、特別のお願いをしておかげを頂く。そういう信心が五十年続いたって、わが心を拝めるようにはなりゃしません。自分から信心を難しゅうするからです。信心はみやすいもの。一通りのことを判らしてもらう。
一通りの道理を判らしてもらう。だから道理に即応した生き方を身に付けて行くという信心。日々が神様のおかげなしには立ち行かれんなあ。神様はおかげ下さるなあというその実感が有難いものになってくる。勿体ないものになってくる。そういう信心が十年続いてご覧なさい。もう愈々以て有難い。言うならば貧争病のない世界にも住むことが出来る。もう自然の働きが、より整うという働き。
もうなぜより整うかというと、神様が氏子可愛い、助けずにはおかんという働きだけしかあってないからより整うのです。それを反対の、例えば生き方をしたんでは、例えば一つの願いが成就した。二つの願いが叶うたと言う様な事では、人間は幸せになりません。言うならば、成行きを大切にすると言う事がどんなに大事なことか、愈々成行きを大事にするだけではなく、尊んで行く行き方が十年も続いたら、確かにわが心が祭れれるようにもなるだろう。
運転の免許を取った。本当にみやすいものだということが判る。けれどもです。(笑)運転の免許は取ってもね、やはり飲酒運転とか、居眠り運転とかそれはこりゃいけませんよね。ルールを言うならば、違えたんではおかげになりませんよね。信心はそこんところがまた大事なんです。一通り覚えたからというて、非常にドライな生き方をする人があります。けれども神様はやはりおかげを下さるんですけれども、それは必ず一遍に差し引かれてしまうような結果が生まれます。
必ず人間ですから、そういう生き方をしよると事故を起こす。そして痛い思いやら、言うなら苦しい思いをしなければならんと言う所も、やはり注意しなければなりません。心掛けておかなけりゃなりません。どうぞ信心をみやすいものと言えれるもの、信心とは本当に有難いものと言う事と同じ意味なんです。有難い、勿体ないそういう信心が例え今どんな難儀な中にあってもです。
本当にお縋りし貫かしてもろうて、信心の稽古をさせて頂いてそこからね、なら今日一日が立ち行くことによっての喜びというものが心の底から申し上げられるようになると、後で必ず、言うなら神様がもう不思議な不思議な働きを現わして下さる。もうそういう体験を十年間続けてご覧なさい。もう絶対自分の心が、神様だけじゃない、自分の心が拝まずにおれんごとなってくるです。神様ちゃ何と有難いお方だろうかと、有難いものがおかげと共に心の中に感じれれるようになるからです。
地団駄踏んでお願いをしておかげを頂くというのと訳が違う。神様の働きを大事にしながら、いわゆる、自然の働きに便乗しながらの日々でなからなきゃならない。そこには毎日毎日素晴らしい神様の働きが生まれてくる。百万円の宝くじがポカンと当たるようなことじゃ決してない。その日その日が立ち行くと言う事に真から有難いというものが判らして頂くと言う事が信心をみやすうする事だというふうに思うですね。
どうぞ。